立派な石垣が残る葛尾大尽屋敷跡。昔は100名以上の使用人が住んでいました。
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都路の北隣にある葛尾村は人口約1650人と規模が小さく、周囲の市町村と比べても山村の趣が色濃い地域です。しかし、それは現代の話。実は、ここに江戸時代から明治にかけて松本一族が住み、11代に渡って栄華を極めた歴史が隠されているのです。信州から移り住んだ一族がその祖とされており、故郷の信州葛尾城になじんで「かつらお」という地名を付けたとか。いまでも葛尾村の住民の半数は松本性で、松本一族およびその影響を受けた子孫だと考えられています。
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往事を偲ばせる模写の絵。邸宅や蔵などがあります。
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その住まいである葛尾大尽屋敷跡がこの春、一般公開されました。村の北部に位置し、無料で見学することができます。松本家は武家から商人になり、6代目から11代目は酒造、製鉄、養蚕、木材、両替商などを手がけました。とくに栄えたのが第8代当主の松本聡通(さとみち)で、のちに三九郎と改名し、家僕100人を使って会津、京、大阪まで生糸の売買で往復したといいます。家業の中心は製鉄業で、都路にも鍛治屋を意味する「かんじゃ」や鉄鉱石を牛で運んだとされる「うしみち」といった地名が残っており、この地域全体が製鉄と深く関わっていたことがわかります。その中心が葛尾だったわけですが、残念ながら明治4年と昭和8年の二度に渡って建築物が火災で焼失し、やがて衰退していきます。屋敷跡には明治17年に松本家の子孫が模写した絵が掲げられており、約2.5ヘクタールの敷地がいかにすごい邸宅だったか、往事を偲ぶことができます。
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近江八景を真似て造った池。この奥に夢殿があり、舞楽を行ったとか。 |
盛んに京へ出入りしていた三九郎だけに芸術的センスも秀でたものがあり、近江八景に習って回遊式の庭園を造らせました。後世は大量の土砂で埋まっていましたが、平成17年から2年の発掘調査で姿を現します。池の深さが1mだったこと、池の中心に中島があったこと、その周辺に石灯籠や飛び石、手水鉢が残っていること、などが明らかになりました。 |
屋敷跡には柱を据えた窪みなども残っています。
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屋敷跡の石垣はみごとで、柱を据えるための90cm間隔の窪みも見えます。これだけの文化遺産ですから、ぜひ見学したいものです。また、併せて見ておきたいのが屋敷跡の山の上にある魔崖仏(まがいぶつ)。大きな岩の上に7体の石仏が彫られており、これも松本家が1709年に建立したもの。個人の所有物ですが、村指定の史跡になっています。歴史の好きな人は、少し離れた場所に一族の墓石群もあるので、足を運んでみてはいかがでしょう。 |
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松本家が受け継いできた魔崖仏も一見の価値があります。 |
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